#神学校 の3,4年生ぐらいになると、ギリシア語、ヘブル語にも慣れ、それらの原語を使って聖書を研究することは非常に面白くなりました。神学校のカリュラムもいろいろな書簡を学ぶようになっていきます。学びは順調に見えましたが、実は「壁」にぶつかっていました。聖書が、神の御心がまったく分からなくなってしまいました。まるで、いろいろな糸がこんがらがってしまい、どこから解いていったらいいか、わからなくなってしまったかのようでした。正直に書くと、神学校のクラスにも出たくなくなり、礼拝にも、聖餐式も受けたくなくなりました。自分が何で神学校にいて、何を学んで、何のために牧師になるのかも分からなくなりました。牧師の先生にもやめたいということを相談したことも度々あります。それに対してあれこれとアドバイスするのではなく、ボーリングに連れて行ってくださった先生の愛情を今では深く感じます。
ちょうど、アメリカの神学校で長年教授として教鞭をとられていた、ジェスキー先生がヘブライ語を集中的に教えるために来日してくださいました。今でも忘れません。ジェスキー先生との最初の授業で「あなたは何のために神学校で勉強しているのですか?」と尋ねられました。まさに的を射抜くような質問でした。(もしかしたら他の先生から私の状態を聞いていたのかもしれません) 神学校で勉強している神学生に今更尋ねる質問でもないと思いますが、かえって当時の私には助け舟にも感じました。私は「牧師になるためです」と答えました。するとジェスキー先生の顔は曇り、下を向いて、残念そうに首を横に振りました。「では、あなたは聖書が全然分からないのではないですか?」と先生は続けられました。私は「はい。全然分かりません。もうやめようと思います。」と、わざわざアメリカから教えに来てくださった先生に、はっきりと返答しました。
すると、先生は「では、誰でもいいですから、思い浮かべなさい。あなたの将来の伴侶でも良い。子供でも良い。愛する人に神のことばを伝えるために、教えるために、神学校で学びなさい。」と助言をしてくださいました。
それは、すでに頭の中がこんがらがっていた私にとって、すっきりとした明確な助言でした。すぐにそれを実行しました。するとそれからは聖書が分かるようになって来ました。聖書の一貫性、聖書が書かれた目的、神の御心、全ての聖句がはっきりと見えるようになって来ました。なるほど、こういうことか!と、目を覚まされた気分でした。
ヨハネの第一の手紙の4章8節に「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」と書いてあります。聖書のすべのことばは、神の愛という動機から書かれています。やさしい慰め、励まし、祝福のことばのみならず、どんなに厳しいことば、訓戒、叱責であってもそうなのです。主は私たちにご自身を「父」と呼ぶように命じ、私たちを「子供」として取り扱ってくださっているのです。聖書は単なる宗教上の規範、経典ではないのです。神の愛に気がつかずに聖書を学んでいたのですから、聖書がわからないのは当然のことだったのです。それがたとえギリシア語やヘブライ語で原語を研究できるようになったとしても、神の愛というもっとも大事な「鍵」がなくては聖書は解けないのです。また主は「隣人を自分自身のように愛せよ」と命じられていますが、他の誰かに主の御言葉を伝えたいという愛の眼鏡をかけて聖書を読むことにより、、神のことばの真意を知るようにさせられます。
聖書を読んでも、聞いても、学んでも分からないと言う方。イスラエル人の子供たちは5才から、しかも私たちがもっとも難しいと感じるレビ記の学びを始めていたそうです。聖書を自分の理性、科学的なものさし、この世の常識、自分の知識と経験、人間的な価値基準、人間の愛、このような眼鏡で聖書を読んでも決して分かりません。いつも、神の愛をその御言葉から発掘するように心がけて、聖書を読み、聞き、学びましょう。
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