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  • 執筆者の写真Mitsuo Haga

聖書は難しくて分からない?

「聖書を読んでもよくわからない」という感想をよく聞きます。無理もありません。ここで、聖書が分かりずらい理由と解決を6つ挙げてみます。

一つは、言語の違いです。聖書はもともと日本語で書かれた書物ではありません。ギリシア語、ヘブル語(一部アラム語)で書かれたもので、日本語の聖書はこれらの原語から翻訳されているものだからです。この言語の違いのギャップ解決は、神学者以外にはなかなか難しいですが、原語を学ぶしかありません。私も勉強会や説教の時に原語本来のニュアンスや意味を伝えることでこれをある程度まで補っています。

 二つ目の理由は、時代背景です。聖書の書かれた時代は数千年も昔から、紀元後約100年頃のことです。しかも、その大部分がパレスチナの地方が舞台となっていますので、現代の日本人である私たちには、彼らの習慣、宗教、文化、考えかたなど学ばなくては理解することはできません。このギャップを埋めるためには、聖書の歴史などを学ぶことをお勧めします。

 三つ目の理由は、書店のどの本をとって読んでも、章や節がふられている書簡はありませんよね。聖書は「創世記10章1節」というように、章と節で区別されています。もともと聖書が書かれたときに、このような区別は無く、礼拝での朗読時にすぐに見つけやすくするためなどの理由で後付されたものです。それは便利性もありますが、単純に読んでいくときにはこの章と節が、かえって文章を破壊してしまっているような箇所もあります。実際にヘブル語やギリシア語で原語で聖書を読んでいると、「なんでこんなところで章を変え、節を分けたのだろうか」と腑に落ちない箇所が度々ありました。このギャップを埋めるために、自分で聖書の章や節を区切ることをお勧めします。私も難しいローマ人への手紙、エペソ人への手紙を内容とギリシア語の原語にあわせて章と節を分けて読みでみたら、意味がすんなりと心に入ってくるように感じました。

 四つ目は時系列の問題です。聖書は66巻が時系列に沿って並べられていません。どちらかというと、物語、詩、啓示など、ジャンル別に分けられていると言うことができます。もともとのヘブル語の聖書の順番と、今の日本語の聖書の順番は違うのをご存知でしたか? この問題をある程度解決するために、私は特に旧約聖書を時系列に並べるテキストを作成中で、実際に聖書クラスで用いていますし、「わかりやすい聖書」と題して小冊子にまとめました。それでも、聖書を時系列に並べるのは、ものすごい骨折れる作業であると感じます。しかし、これをやることで、聖書のそれぞれの書簡や人物の関連性、特にイエス・キリストという一本の線が初めから終わりまで流れていることに気がつくことでしょう。それは聖書のメイン・テーマでもあり、それをつかめないと聖書を本当に理解することはできません。

 五つ目は、ブログの他の項目にも書きましたが、神の愛を全ての節に見出すことです。「愛のない者に神はわかりません。なぜならば、神は愛だからです」と、聖書自体に書かれているように、神は人間を愛すると言う目的以外には、この書物を残していません。やさしい言葉だけではなく、いいえ、かえって聖書の厳しい言葉のほうが圧倒的に多いのですが、その中にも神の愛を見出すこと。それは今までに上げた四つの理由にまして大事なことです。

 六つ目も五つ目と同じくらい重要な問題です。それは「信じ読む」ことです。聖書を今日の科学、常識、理性、経験に当てはめて読んでいくと、こんなでたらめな書物が、何でこんなにも多くの人に読まれ、愛され続けているのかが理解できなくなります。しかし、その読み方がまず間違えです。聖書自体にも書かれているように、聖書は神の言葉ですから、人間にとって「隠された奥義」なのです。聖書には神がなさったこと、神が約束したこと、神の思いが書かれていますので、それを人間が理解することができると考えることはおごり高ぶりなのです。虫が人間の思いと言葉を理解できない以上に、人間が神の意図、御心を理解することはできません。まるで隠されている物の様に感じます。「目が見たこともないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(第一コリント2章9節)とあるように、見たことも、聞いたことも、思い浮かんだこともないことを理解することは不可能なのです。

 しかし、神は私たちのためにこの聖書を書かせたのですから、聖霊なる神は遠く及ばない私たちの理解を助けてくださいます。そして、この書物に書かれた約束と祝福を信じて受け取るように助けてくださいます。聖書自体も述べているように、信じてこの書物を持つものにとって、それは永遠の命と祝福という価値あるものになりますが、信じないで読む者にとっては、つまずきとなるとあります。(イザヤ8章14節) この問題を解決するために大事なキーワードは、「神の言葉」です。皇帝や王の言葉を聞くとき、兵士や僕は忠実に聞き漏らさず、そしてそれに異議を申し立てることもせず、「仰せのままに」とその言葉を受け入れます。では皇帝より、王よりも高き神の言葉ですから、私たちの浅い理性、貧しい知識によってあがらうことは、無意味であり、恐れ多いことであることを悟りましょう。まさに聖書にあるように「アーメン(はい、そのとおりです)」という心からの信頼をもってこの書簡を読み、また永遠の祝福、この世では得られない神の愛とめぐみと、救いに与りましょう!


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